生きていると時々、自分ではどうにもならないことに出くわして戸惑う事がある。
自分の理解を超えたできごとが起きてしまって、あまりの見通しの悪さに自分がとてつもなく非力でちっぽけだと思い込んでしまう事がある。
理不尽なくらいに悲しい事が突然起きてしまい、いま何が悲しいのかすら見当がつかなくなる事がある。
いつかは終わる事を知っていながら、気が付かない振りをして暮らして、終わりが来た時に、からだじゅうが痛くなる程の罪悪感に心が満たされてしまう事がある。
そして、それらがすべていっぺんに来ることもある。
困った事にそういう時、過去は素敵に甘美だ。やわらかなクッションの様に、日だまりの中で、薄目を開けて半分だけまどろむ、ねこのこどもの様に。
机の引き出しの中、細かながらくた達が眠っている。
過ぎ去ってしまい戻る事の叶わない、私の時間。そこへ戻るための鍵。
いや、それはきっと嘘だ。雨上がりに濡れた蜘蛛の巣に鳥の羽根がくっついている様なものだ。そこにはもう雨は降ってもいないし、蜘蛛もいない。鳥は遠くへ飛び去ってしまっている。
でも、とても美しい。
夏休みに湖に落としてしまって壊れた時計や、どのペン先も上手くあわないペン軸や、クリスマスが終わって片付け忘れたツリーのちいさな飾りや、着せ替えにんぎょうの片っぽだけの靴や、どの自転車のものか絶対に思い出せない鍵や、不思議に小さい乾電池や、名画座の素っ気ないチケットの半券などを、捨てずに引き出しに収めた時には、いつか過去を惜しむためだった訳ではなかった筈だ。
過去は現在を生む。でも現在が無ければ過去は存在出来ない。
引き出しを一度収めて、またゆっくり開けた。